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鈴木宏尚ブログ#2 「鈴木くん」

第二章

ジャズダンスは必ずステップ踏む前に柔軟運動するのですが大きく股を拡げるので男性は常に後方でストレッチしてました。女子達を後ろから眺めるのも当時若かった僕には大変な御馳走でした🤤
それほど私は純朴で純心な心をもった青年でした。今も変わらずですが😌

今ではこんなオッサンですが当時は鈴木くん鈴木くんって結構人気だった記憶が(どんだけ痛い奴)あります。
その時までディスコもそんなに知らない時都内にお勤めのジャズダンスのお姉さまに六本木に連れて行ってもらってフィーバー、帰りは渋谷の円山町、ムフフとても刺激的でした😍✨

ジャズは役10年続けました。その間に紆余曲折ありました。
まず大学を卒業を控えて就活、狙うは女性女性社員が多いデパートか化粧品関係の仕事、見事全部落ちてしまう(動機が不純)
結局国分寺の不動産会社に勤務することにそこでバブルも終わりかけの頃一生懸命地上げしてました。リゾート地、伊豆とか軽井沢持ってるお宅に訪問して当時はネットもないので価格もみんな知らないのを良いことに安く叩いて買って転売、結構会社は儲かっていたと思います。社員旅行はニューヨークでした🗽
バブルも弾けそうになってたので早々に退職してそこにいた同じ会社にいた部長と課長と一緒に独立して会社を立ち上げ。
しかしバブルも終わっているのでそうそう上手く行くはずもなく解散。出資したお金はパーになりぷーたろーに😅
暇だったので両親の知り合いの設備やさんのお手伝いに、トラックで砂利運んだり水道管埋設したりするお手伝いを始めました。そこで先輩達にギャンブルを教わって毎日仕事帰りにパチンコ三昧、結構楽しかったな〜
パチプロになりたかったくらいですがやはりギャンブルの才能もなく、もしあったら今ダンスやってませーんってか😓
でもある意味ダンスを仕事にしてる人生もギャンブルっぽいですがね笑笑

なんだかんだ結局穴掘りを三年もしました。資格も取って立派な設備屋さんに職人も悪くないかなって😌

そのうちやはり飽きて不動産に戻りたくなって20代後半には信託銀行の不動産販売会社に勤務、信託銀行のおねーちゃん達と仲良くなって食事や飲み会、旅行、スキーやスノボ行って楽しかったですね。でもまー家は売れませんでした。才能ないですね。パーティー券もろくに売れない人間なんで😅押しが足りないっていうか
いまだにパー券売れる先生達が羨ましい😆

そこで当時親父がバブルの時に相続で国に借金をしてました。毎年高級外車を3台分くらいの納税それはそれは大変だったと思います。いつもお父さん毎年ベンツ買い換えるられるねって冗談言ってました。その時は呑気な事を親に言ってましたが相当大変だった見たいです😓
それが原因かどうかわかりませんが心筋梗塞を発症してしまい農家を続ける事が出来なくなりました。
そこで散々我がままに育ててきてもらったのでまた家も売れないので嫌気をさしていたのもあって会社を辞めて家を手伝うことに、農家業へと転職👩‍🌾草むしりくらいしか出来ませんでしたが、、

少し経って親父も回復してきたのでそろそろバイトでもしようかと思ってた矢先に新聞の折り込みに社交ダンスの求人チラシが

初心者歓迎、ダンス教わりながら働いてみませんか?Shall we Dannceという店名

社交ダンス教えてもらえるあげくにお金貰えるなんて最高っと早速面接へ🚗

そこからが私の社交ダンス人生の始まりでした。

 

そこで散々我がままに育ててきてもらったのでまた家も売れないので嫌気をさしていたのもあって家を手伝うことと農家業に転職👩‍🌾草むしりくらいしか出来ませんでしたが、、😭

少し経って親父も回復してきたのでそろそろバイトでもしようかと思ってた矢先に新聞の折り込みに社交ダンスの求人チラシが

初心者歓迎、ダンス教わりながら働いてみませんか?Shall we Dannceという店名

社交ダンス教えてもらえるあげくにお金貰えるなんて最高っと早速面接へ🚗

そこからが私の社交ダンス人生の始まりでした。

 

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